タイでの結婚式
2001.12


Message-Id: <200201180452.NAA01902@www2.att.ne.jp>
Subject: [saamii:0618] Re: タイでの結婚式について
Date: Fri, 18 Jan 2002 13:52:18 +0900 (JST)
Reply-To: saamii@freeml.com
To: saamii@freeml.com

 このドキュメントは、2001年12月にタイで挙式した、私とタイ人妻のおける結婚式の記録です。最初に公開されたのはSAAMII MLですが、その後、HTML化、若干の加筆、訂正を行いました。
 公開後に気付いた誤りを訂正するとともに、若干の写真を追加しました(2002年2月12日)
 あちこちリンクが張ってありますが、知り合いのページであったり、自分がよく利用するページというだけで、深い意図はありません。

12月22日(土)

 友人のT君が師走の忙しい中、有給をとって私の結婚式に参列してくれるとのことなので、一緒にタイへ向かう。正確には一緒ではなく、T君は中華航空、私は日本航空である。年末年始の混雑で席が取れなかったこと、結婚式後にある私のアメリカ出張により航空会社の選択肢が狭まったことが原因である。

 到着後、待ち合わせ場所であるドンムアン空港第二ターミナルのKFCまで行く。妻が来ていない。携帯に電話すると1Fの喫茶店で友達と待っているとのこと。

 タクシーでラチャダー・ソイ3にある妻のアパートまで行く。このアパートは日貸し、週貸しもしているので、T君と妻の友人のための部屋を取ろうとすると、疲れた体に妻のありがたいお言葉が。

「今晩、車でコンケーンに行くよ」

 「ところで、私はどこで衣装を借りるんだ」と聞くと、「何でスーツを持ってこないんだ。アメリカへ出張するのに平気なのか」と叱られる。それが全然平気なのである。アメリカ西海岸の会社なんて、幾らドレスコードが『ビジネス・フォーマル』と指定されていても、

海水パンツ一丁で臨むのは止めてくれ

ぐらいの意味だから持ってきていない(本当の話)。ちなみに『フォーマル・パーティ、ドレッシィを強く推奨』と指定されて、初めて「スーツを着て来い、ネクタイを絞めろ」という意味だ。「カジュアル」がどういう意味なのかは残念ながら分からない。アメリカ語(≠英語)はとても難しい。

仕方なくカルフールでスラックスと白いYシャツ、ベルトを買う。確か500Bぐらいだった。ベルトが一番高かった。妻に5バーツ(約76g)の金の腕輪を買う。結婚指輪は9月に訪泰したときに購入済み。ダイヤの指輪は要らないらしい。デ○アスの魔の手は、タイ東北部イサーンにまでは及んでいない。お姉さんより先に嫁ぐときは金を与えなければならないというので、お姉さんのために3バーツ(約45.5g)の金のネックレスを買う。

12月23日(日)

 車(運転手付き)はソイ・カウボーイにあるとのことなので出かける(要は皆呑みたいだけだ)。この頃は1時半で閉店らしい。閉店後、車に乗ってラチャダーに戻り、山程の荷物を積み込んで出発。この時点で2時半。ちんたらと走り、近所に住む妻の姉、ドンムアン近くに住む妻の叔母を拾う(この時点で朝4時)。どこにでもいそうな仕切り屋の叔母さんで、妻はどうやら苦手らしい。

 途中、ちまちまとトイレ休憩、果物屋がやけに集まっているお店で買い込む。どうも車で行くときの恒例行事らしい。昨年の年末と比べやけに寒い。T君はユニクロのフリースを引っ張り出していた。長袖が入った私の鞄は荷物の遥か下にあるため、私は上着を引っ張り出すことができない。「タイは暖かいから平気」と強がりを言い、我慢する。

 ムアン・コンケーンを避け、砂糖工場を左手に見て、恐竜の像があるT字路で昼食休憩。このT字路を曲がり更に20km走ると妻の実家に着くが、近道をしたところ、埃だらけの道でスタックしてしまい、皆で押す羽目になる。実家には14時頃到着した。既にカラオケ・セット(というよりはPA用スピーカー・セットである)、テント2張、6人掛け丸テーブルと椅子が20セット程が準備されていた。宴会先遣隊がテントを占領済みで、義父、義母に挨拶するより先に40度の焼酎を呑まされる。台所では、既に近所のおばさん達+料理好きな義兄とおかまの友人が忙しそうに何か作っている。バナナの葉で須弥山のような置物を作っていて、触って遊んでいたら大層怒られた。ビールは大瓶20ケース、40度の焼酎は4ケース買い込んでいたことを確認した。

※特に親しい人達に出すためのハイネケンも数ケースありました。

 少し休んだだけで町に出る。私が美容院で白髪(若白髪である)を染めている間に、皆は買出しをしている。白髪染めが180Bで済むのに、ビールは5000Bも買い足した。その他、山程の野菜、魚、肉。手元にある軍資金はバンコク銀行の私の口座から降ろしてきた20000Bである。帰ってくるなり、また焼酎を呑まされる。仕方が無いので隠しておいた日本酒を与えたら、酔っ払いの興味がそちらに移ったようで、少しおとなしくなった。近所の男衆が勝手に呑んで騒いでいる中、22時前に就寝。疲れた1日であった。

12月24日(月)

  妻と私
妻と私。結婚式後なので、既に妻は化粧も落として普段着に着替えています。

 妻は4時半に起き出して、町で髪のセットおよび衣装合わせ。6時少し前に起きたら、タイの結婚式で見るような女性が部屋にいた。寝ぼけ眼で「誰?」と聞くと、肘を思い切りつねられた。早く水浴びをしてこいと怒られる。僧侶が来るのでタンブンしてみた。何かお経のようなものを唱えてくれた。

 義父からジャケットを借り、馬子にも衣装状態になり、何となく記念写真に応じて時間を潰す。私には何時から始まるのか分からないが、タイ人にはタイの常識としてスタート時間が分かるのだろう(実際には招待状にタイ数字で時間が書いてある)。

 家から30m程離れたところまで手を引かれ、そこから実家まで大勢の人と歩いていく。神妙な雰囲気ではなく、ミネラルウォータの空き瓶を棒で叩いたり、回りで踊りながらの騒がしい一団である。一緒になって踊ったらさすがにまずいだろうと思い、神妙な面持ちで歩く。細い鎖で3回「とうせんぼ」され、その度に封筒に入れた金を渡して開けてもらう。封筒には100B札が1枚入れてあるが、3回目の鎖を義妹が持っていたので、1000B札が1枚入った封筒(妻の指示)を渡す。「とうせんぼ」は「銀の鎖、金の鎖、ダイヤの鎖」の通常3回だそうだが、小遣い欲しさの近隣住民が、サファイヤ、ルビーといった具合にどんどん足すこともある。聞いた話だが7回あったという人もいるらしい。

玄関前の土間にバナナの葉が敷かれており、そこで裸足になって水をかけてもらう。家の中には参列者が50人程いて、逃げ出したくなったが、妻がいる一番奥まで進む。昨日見たバナナの須弥山が置いてあった。結婚式は9時少し前から始まり、1時間ぐらいで終わった。手順は、

  1. 40歳くらいの遣り手の町内会長のような人が、式の開始をマイクでアナウンスし、村の長老衆を紹介する。

  2. 結納金のご披露(白い袱紗をあけ、ちらっと見せるだけ)。

  3. 白い服をきたおじさん(サブロウさんに教えてもらいました。「パーム」と呼ばれる「司祭」だそうです)が私たち夫婦の前に座り、額に3つの点を書く。

  4. 義親から銀の大きな鉢をもらう。

  5. 鉢の中に入っているものを手にとる。夫はバナナの葉を丸めたもの、茹で卵、米(おにぎり状)、バナナの4点、妻はバナナを除く3点。夫は更に鉢も持つ。非常に持ちづらいが、多分、落としたら大変なことになると思う。

  6. パームが祝詞をあげる。欠伸をしてはいけません。

  7. 祝詞が終わったら鉢を降ろし(他は持ったまま)、三顧の礼をする。

  8. バナナの葉でできた須弥山につけられた蝋燭に夫婦で灯を点す。蝋燭の芯を水で湿らせておくというお約束の悪戯もなく、この点は一安心。「キャンドル・サービスかぃ」と突っ込みたくなるが、突っ込まないこと。多分ボケは返ってきません>関西人

  9. 両手を合わせ、白い糸を夫から妻へ通してもらう。両端がどうなっているのかは、緊張していたため未確認。そのままの状態で、また祝詞を頂く。今度は顔は上げたまま。

  10. 聖水を頭に振り掛ける。このときは頭を下げる。

  11. 手にした茹で卵の殻を割って、糸で切り、切り口を見て占ってもらう。多分どんな結果が出ても『良い』と言うはず。

  12. パームが参列者の方を向いて何やらうやうやしく宣言して退席。

  13. 最後に夫が参列者に挨拶する。台詞はその場で教えてもらったが、緊張のため言われる先から忘れてしまい、「皆さん、どうもありがとう。良い夫婦になります。○○村の皆さん、ありがとうございました」みたいなことを言って誤魔化した。この挨拶はPAスピーカに繋がっていて、2ブロックぐらい先まで聞こえたはずだ。

というものだったと思う。私達のときは、頭に白い糸を巻くという儀式はなかった。地方によっても差異がありそうなので、同じようにやったら恥をかくかもしれない。まるで式の手順を熟知しているかのように書いてはいるが、本当は妻の親戚の年配のおじさんが私の後ろについて、私は操り人形のように動かされていただけである。写真にもビデオにもしっかりと証拠が残っている。妻の実家では飽きもせず何回もビデオの上映会が開かれている(笑)。

 この後、次々と参列者からお祝い金を頂くとともに手首に糸(サーイシン)を巻いてもらう。お祝い金の金額は様々で100B、200Bぐらいの人が一番多い。参列してくれたファラン(そのうちの一人は友人であるタイ人の夫である)は1000Bや2000B、村の年寄りでは60Bという人もいた。金額の多寡よりも、多くの人が自分に出せる相応しいお祝い金を持ってきてくれたことが嬉しい。お祝い金記録係の人は、「誰それが▲バーツ」といった具合に、瞬時に記録していた。コイン混じりの皺だらけのお札を渡す人がいても、記録係はタイ人とは思えない正確さで記録している。

 サーイシンを巻いてもらうとき、通常は妻の肘を下から支えるが、結婚式では上に手を置くのが正式らしい(妻も知らなかった)。私の斜め後ろでは、親戚の子供がお返しの品である10Bぐらいのタオルを渡していた。

 お祝い金受領とサーイシン巻きが延々と2時間以上続いた後、夫婦の寝室大公開。寝室で私達夫婦と一緒に写真を撮る人が続出し、部屋の入り口から寝室を覗き込む人が多数。記念撮影が一段落した後、二人で並んでベッドの上に正座し、三顧の礼を行う。ベッドの上には花びらはなかったし、巷で聞いていた模範的夫婦の添い寝の模範演技(?)、「明日の朝まで出てはいけない」というご注意もなかった。

  村の人
村に住んでいるオーストラリア人、後ろはお祝い金の保管場所を盛んに聞いてきたおじさん。狭い村であっても良い人ばかりではないので、お金の管理は厳重に!

 その後、ぞろぞろと披露宴に突入する。妻が着替えている間、披露宴会場(庭)にいると焼酎責めにあいそうなので、空いた部屋で隠れるようにして1時間程仮眠を取る。外で大宴会+カラオケ、家の中では料理作りに大活躍してくれた近所のおばさん達が集まって食事をしていた。宴会をしているテーブルを回るが、近所のおじさん連中とは余り面識はなく、あっても箱単位で煙草をねだられるので、おばさん連中、義理の両親、村に住んでいるオーストラリア人とその友人(飛び入り参加だったけど、お祝い金を1000Bもくれた)の近くをうろうろしていた。

 何となく間が持たないので、正月に食べようと日本から持ってきていた「サ○ウの切り餅」を焼いてみた。餅自体は大好評だが、海苔は相当不気味に思ったらしく、皆、剥がしながら食べていた。妻が残った餅を焼き上げて他の人に配っていたが、焼け焦げている方が正しいのか、ほんのり狐色に焼けている方が正しいのかとの質問が続出した。ほんのりと狐色で焼きあがっている方が、妻が見様見真似で焼いたものである(爆)。海苔は「焼焦げ」を隠蔽するための道具と思われた節がある。「マーマータイのインスタント・ラーメンしか作れないよ」が妻の口癖であるが、ヤムヤム、ワイワイこれもタイのインスタント・ラーメン、餅の磯辺焼きの4つが作れることが分かった。私のレパートリーより相当に広い。

【ノロケモード始まり】

一応、謙遜していますが、妻の姉および妻の友人によると、妻は相当料理は上手なようです。

【ノロケモード終わり】

 結婚式後のパーティは延々と続く。妻は既に5時頃に姿を消している。部屋に逃げてくると、「新郎がパーティにいないと格好が付かないから」と、また送り出される。宴会参加者が大分減った夜の7時過ぎ、水浴びもせずにベッドに潜り込む。妻は既に爆睡。参列者の思惑通り、何もない初夜であった。

12月25日(火)

 この日も、小規模であるが有志によるパーティがなんとなく続く。パーティには顔を出したり、引っ込んだり。町に結婚衣装を返しに行き、フィルムの現像を頼む。24枚撮り(T君のご好意で、24枚撮りに限り1本100円で入手できた)×37本の特急仕上げ(妻の要望)で3500Bであった。写真屋は多量の特急仕上げ要求に音を上げていたが、仕上がった写真を見て、お祝いとばかりに幾らか割引してくれたようである。またビール、野菜、肉を買い足す。家に戻るとカラオケ屋は撤収準備に余念がなかった。

 奥の方では、いつの間にか牛が解体されていた。ほとんどの肉は結婚式で手伝ってくれた近所の主婦の方々の手に渡っていた。多分、慰労の意味合いが強いのだろう。皮周りは細長く切られ、ビーフジャーキーとして妻の親族の手に渡るようである。

12月26日(水)

 テントと大型クーラボックスが回収された。庭に散乱する多量の空瓶、瓶の蓋、塵を掃除する。私も煙草の吸殻を庭に捨てていたので、反省してまめに掃除するが、その矢先に義父が吸殻を投げ捨てる(困ったものだ)。掃除が終わり、のんびりと過ごす。運転手付きで借りていた車(ちなみに運転手はこの村出身の人で、結婚式にも参列した)はバンコクへと戻っていった。借り賃は4500B+ガソリン代1200Bであった。知り合いからではなく、業者から車を借りるともっと高い。

 結局、刷った招待状は400通(もちろん、来れない人も多数いた)。招待状無しで飛び入り参加した人が約15人。3日連続の宴会での延べ参加者数は、概算で500人くらい。タイに長く住む飛び入り参加のファラン曰く、『ビッグ・パーティ』とのこと。

12月27日(木)

 駄目もとで、外務省認証が済んでいない戸籍謄本を片手に郡役場に向かう。実は、日本の戸籍謄本の翻訳認証およびタイ語訳はできていたが、そのセットをタイ外務省で認証してもらおうとしたところ、夫婦一緒に来ないと駄目と言われ、認証が済んでいないのであった。最初は受け付けてくれそうな雰囲気だったが、若い女性の上司が出てきて駄目だと言う。一目見て大学出の官僚と分かる雰囲気の人で、融通が利かなそうな雰囲気金目的でゴネているわけじゃないが漂っている。タイ語が解らない振りをしていたら、夫である私に流暢な英語で駄目であるという理由を説明する(実際のところ、『認証』とか『謄本』などのタイ語での専門用語が分からないと歯が立ちません。私? 雰囲気で理解したつもりになっているだけです)。早々に退散し、明日バンコクに戻ることにした。

 夜、肘の近くまでびっしりと結ばれていたサーイシンを解く。

結婚式から3日経過したら、解いても良いそうである(どこまで本当かは知らない)。
解く、手で引っ張って切るはOKだが、鋏やナイフで切るのは駄目とのこと(どこまで本当かは知らない)。

何れにしても、水浴び後、乾きかけたときに妙に痒くなるサーイシンが解けるのはありがたい。右手7本、左手4本を残して、ほとんど解いた。別に数に意味はないが、全部解くのは気が引けた。

 その後、義母が織った絹布を私の家族の人数分頂く。お世辞抜きでとても綺麗な物である。妻、義姉、義妹は機織りはできないとのこと。技能はこうして途絶えるのか、と妙に納得してしまう。

12月28日(金)

テレコム・アジア  
ラチャダーにあるテレコム・アジアのビル。ロータスから撮影。
 義父母、義妹、T君、私、妻(+運転手)の7人を乗せ、空港に向かう。車は村の人のもので、後席付きのトラックである。とても7人も座れないので、T君と私、更に妻も付き合って荷台に乗る。村の人の車をタクシー代わりにしているので、謝礼は500B(ガソリン代込み)。コンケーン空港にいる白タク(とはいえ、トラック)に乗ると、600Bから800Bもかかるそうである。

 1日4便しかないくせに、レンタカー会社が2社も入っているコンケーン空港で、2時間程次の飛行機を待ちバンコクへ。タイ航空国内線では珍しく昼食が出た。義父母、義妹は初めての飛行機搭乗だが、皆がいるのでさほど恐怖心は無いようだ。義父は家族の手前でんと構えているが、ベルトの付け外しは私の役目(笑)。

 ドンムアン空港着。タクシーに分乗して、まず懸念の外務省認証を行う。が、慌てて分乗したことが災いして、義父母の荷物をタクシーのトランクに忘れてしまった。ドンムアン空港に電話して、その旨を伝える。余分に50Bとられる空港タクシーだが、万一のときの苦情票が初めて役に立った。ちなみに外務省の認証が完了するのは、何と1月3日。年末年始+土日が重なり、中5日の認証作業となってしまった。

 妻のアパートで義父母を除く全員の荷を解く。日貸しもやっている妻のアパートにT君、妻の家族用の2部屋を取る。デポジット400B、一泊380B。バスタブは無いが、大筋スクンビットの700Bから1200Bのホテル並み。TV、エアコン、冷蔵庫、ダブルベッド、応接セットがある。のんびりしていると空港から忘れ物を預かっている旨の連絡が届く。


12月29日(土)

 義父母、義妹を義姉のアパートに送り届け、私と妻はドンムアン空港国内線ターミナルに荷物を取りに行く。義父母の荷物なので何が入っているかは詳細には把握していないが、空港インフォメーションの人は職務上、一応何が入っているか詳しく聞いてくる。妻が「分かりません」と答えると、空港インフォメーションの人が○○、□□と内容物を細かく言う。その通りに記入する。空港インフォメーションの人が、受取人の申告と内容物の差異が無いことを確認して(おぃおぃ、言った通りに書いているんだから違う訳ないじゃん)、荷物を受け取る。妻は早速、先日のビーフジャーキー、義母手作りの魚で作った味噌が無くなっていないことを確認し安堵していた。着替え類はどうでも良いらしい。義姉のアパートに戻って、皆でまったりと過ごす。

12月30日(日)

 義姉が皆で食事をしようと言い出し、スクンビット・ソイ24のレモン・グラスに向かう。が、昼食時を過ぎており中休み中。義父母の口にあうかどうか不安だったが、居酒屋「まりこ」に入る。皆、餃子の大ファンになってしまった。韮が効いていて美味しい。

 その後、エンポリアム横の公園を散歩し、記念写真大会になる。義父は何十年か振りの2度目のバンコク、義母は初めて訪れるバンコクである。興奮しない訳が無い。タイ人であっても、バンコクはTVでしか見たことがない、という人は幾らでもいる。私の両親がバンコクに来るというイベントでもない限り、義父母もバンコクになんて来なかっただろう。

12月31日(月)

 特になし。まったりと過ごす。田舎の生活が染み付いており、8時過ぎには皆、寝てしまう。お陰で盛大な花火もラチャダムリ通りの歩行者天国も全然知らない。もちろん、カオサンの大騒ぎも知らない。

そう言えばカオサンはもう2年ぐらい行ってないなぁ。儲かってはいるだろうけど、森さんは元気にしているだろうか。ジミーさんは相変わらずバスマップを売っているのだろうか。ATMデパートが閉店したって本当なんだろうか。

1月1日(火)

 1/365。日本では、やはり芸能人隠し芸大会を、延々とTVでやっていたんだろうか。不審船撃沈騒ぎなんて、昨日まで知りませんでした。

1月2日(水)

 朝飯を皆で食べながら、私の両親が今日の夕方来るよ、という話をしていた。義母、義妹、妻は既に昨日、美容院でブロー済み。言葉は通じないだろうけど、両家のご対面で私は大苦労するだろうな、と思っていた。思い起こせば私の両親は、タイ人との結婚に大反対していた。いや、多分今でも賛成はしていない。「散々金をせびられて、金が無くなれば、お前なんかポイだ」、「日本語も話せない娘を日本に連れてきてどうするつもりだ」、「タイ人ってまっ黒なんでしょ」等々は、両親の1年前の台詞である。それでも諦めたのか、渋々認めるようになり、「年末の結婚式は忙しくて行けないけれど、相手の両親と顔を合わせない訳にはいかない」と言い、両親、弟、妹、妹の夫と子供2人の7人が、今日から3泊4日という強行軍でやってくることになっている。

 10時を少し回った頃だろう、妻の携帯が激しく鳴る。何故か良くない連絡のときは電話の呼出し音がきつく聞こえる。このときもそうだった。妻の語気が荒くなる。イサーン方言丸出しなので、2割ぐらいしか分からない(そうでなくても相手の声は私には聞こえない)が、緊急事態が発生したことが分かる。妻の家族間で数分間の話合いがあった後、義母が私に言った。

カッ・バーンいえにかえる

 実家に同居していた義母の兄、つまり私にとっての義理の叔父が急死したとの連絡であった。痴呆症を患い新しく建て直した家に住むことを拒否し、昔の高床式の家の廃材で作った離れに住んでいた叔父である。確かに今年のコンケーンの冬は寒かった。私達の結婚式による騒音もストレスになったのだろう。79歳の叔父は急死した。せっかく来た私の両親に会えない無念(恐らく言葉が通じなくても『娘をお願いします』ぐらいは言いたかったのだと思う)、兄の死、天秤にかけることではないが、天秤にかけなければならない悔しさが、義父母の苦渋に満ちた顔から読み取れる。

 すぐに航空券を手配する。近所の旅行代理店では全く話にならず、スクンビット・ソイ11まで出て14時発の航空券を手配する。妻は「夫が日本に帰り次第、すぐに向かうから」と言い、バンコクに残ることになった。14時のコンケーン行きの便に義父母、義姉、義妹を乗せた。あと2時間で私の家族はここから500メートル離れた国際線第二ターミナルに降り立つ。タイのTVドラマのようなすれ違いである。今時の日本のTVドラマではこんな陳腐な設定はしない。『事実は小説より奇なり』ってこういうことを言うのだろうな。

 17時過ぎ、ホテルに着いたとの連絡が妹から入り、妻を連れてスクンビット・ソイ22のクィーンズ・シキリット・パーク・ホテルに向かう。会う早々、事情を説明する。私の両親がこの結婚に反対していることは前にも書いた。「ほぅ〜ら、そんな嘘を付いてまで、会うのを拒んでいる」と言い出すのではないかと懸念したが、「早く、お前の妻も実家に返してあげないと」と言ってくれたときは、涙が出る程嬉しかった。妻は「すぐに葬儀、火葬する訳ではないから」と言ってくれた。

 人見知りが激しく、自分の玩具をまず他の人に貸すことのない妹の3歳になる長女が、妻に自分の縫いぐるみを手渡した。気付いたときには、妹の長女は妻と一緒に塗り絵をしている。

  妻:「シー・アライ?なにいろ?
妹の子:「ここは、みずいろをぬるの」
  妻:「シー・ファー、スワイみずいろ、きれいね
妹の子:「このいろでいい?」
  妻:「ニー・ディークワこっちのほうがいいよ

言葉も通じないのに、こんな会話をしている(しかも、会話が成立している!)。そんな妻の姿を見て、何か、うまく言えないけれど、ものすごく安心した。

 両親一行はツアーで来ており、私と妻をオプショナル・ツアーの食事に誘った。ツアー客にはお馴染みなのだろうが、私と妻は初めてシーロム・ビレッジという所に行った。正直言って、タイの中にある外国人向けの観光地だった。カオサンやパタヤの比じゃなかった。私の知るタイではなかった。従業員も儲けることしか頭になく、妹の子供が体調不良で吐いてしまっても、布巾の一つも持ってこない。仕方ないのでそのまま放っておいた。ずるいタイ人は沢山知っているが、情の無いタイ人というのは初めて見た。王宮近辺の詐欺師の方が余程血が通っている(別に詐欺師が良いと言っている訳ではありません)。

1月3日(木)

 私の家族は市内観光(免税店巡りというオプションが強制的についてくる「あれ」である)に出かけている。その間、私達(と友人のT君)はラクシーにある外務省に認証が終わった戸籍謄本を入手しに出かける。今度は難なく入手した。その足でタクシーを拾い、バーンラックの役所に出かけた。妻の実家の郡役場で断られたとき、手続きはここと決めていた。縁起担ぎかもしれないが、『愛の家』という名前が良い。

 午後1時、バーンラック区役所で手続きを開始した。人の良さそうなおばさんが担当した。「いつもは何語で話をしているの?」、「仕事はバンコクなの?」、「何回タイに来ているの?」、「へぇ、これが日本のパスポートなの、よくできてるわね」といった普通の世間話をしながら書類が作成されていく。後になってよく考えると、タイの書類によくある『係官が本人および証人に質問し、事実関係を調査した結果』という枕言葉の調査を巧みに行っていたのであった。もちろん偽装結婚の類ではないし、詐欺を働いている訳でもないので、問題は何もない。しかし実に巧みな話術であった。この頃「言葉使いがなってない、敬語も使えないのか」と叱られ気味の私のタイ語会話に対し「ケン上手ね」とお世辞を言い、上手く事実関係を聞き出していた。

妻がサインし、その係官が証人欄にサインする。もう一人の証人は友人のT君である。日本人でも良いのか、と聞くと、自然人なら問題ないという。日本語で書くと、『自然人』は何の意味だか分からないが、恐らく法人の対語なのだろう。法律上の人(法人)と自然に存在する人(いわゆる人間)と私は理解した(誰か本当のところを知っていたら教えて下さい)。友人のT君はサインしたものの、私は一切サインしなかった。そんなんで結婚したことになっているのだろうか? 妻の夫はT君ということになってやしないだろうか? 少し、いや、凄く不安だ。後日、日本語訳を見たところ、妻はやっぱり私の妻であった。ひと安心である。

 係官は、その場で謄本を3部作ってくれた。1部は妻の本籍地でのタビアンバーン処理用、1部はビザ用、1部はあなた達のものと言っていた。実に気持ちよく処理してくれたし、証人にもなってもらったので幾らか払おうかと思っていたら、それを察知して、「謄本3部で20B」と言われた。その金はすぐに別の係に渡された。賄賂ではなく、コピーおよび謄本の発行手数料である。係官は「お礼はいらない」と言う。テキパキと処理をしてくれる人程、賄賂を取らない。ろくな仕事をしない役人程、賄賂を要求する。

 私の家族は、午後5時くらいにホテルに戻ってきたが(連絡手段は公衆電話←→妻の携帯)、「疲れないように、今日は早めに休んで」と言い、今日は会わないことにした。明日の早朝には、彼らは私が日本から予約したアユタヤ観光に行くことになっている。

 この日、妻の携帯には、ひっきりなしに実家から電話が入っていた。

1月4日(金)

 私の家族は朝からアユタヤ観光。午後5時にスクンビット・ソイ22のホテルに両親を訪ねる。何を食べても「辛い」という私の家族なので、無難なところでMKスキーに行くことにした。雰囲気の良かったソイ39のMKが閉店してしまったようなので、エカマイ近くのメジャーコンプレックスの中にあるMKに行くことにした。自由行動のほとんど無いツアーなので、私の家族はスカイトレインに乗ったことも楽しかったようだ。自由行動のあるツアーでも、多分私の家族はホテルの半径100m以内でしか行動しないだろう。

しかし、あぁだこぅだと注文を出す私の家族(大人5人、子供2人)だけでもあれだけ疲れるのだから、妻の両親、姉夫婦(籍は入れていない)、妹が加わったら、多分私はキレてしまっていただろう。

 食事後、2台のタクシーに分乗させ、かつタクシーの運転手に「ちゃんとメータを使え、余計なところに寄るな」と釘を刺し、私の家族をホテルに帰した。

 この日も妻の携帯には、ひっきりなしに実家から電話が入っていた。妻は相当粘っているようだ。すぐにでも帰してあげたいが、妻は「マイペンライだいじょうぶ」と言う。本当は『マイペンライ』ではないはずだ。

1月5日(土)

 私の家族、および私が日本に帰る日。T君一人を残し(ごめんね)、妻と私はタクシーに乗る。妻を北バス・ターミナルモーチット2で降ろし、ドンムアン空港から一人JALに乗り、日本に向かう。私の家族はANAだった。

1月6日(日)

 成田で約半日、時間を潰し、サンフランシスコに飛ぶ。時差の関係で、夕方に飛び立ったのに、着くのは昼前(当たり前なんだけど、何か厭だ)。

1月7日(月)、1月8日(火)

 セールスミーティング。どうでも良い。

1月9日(水)

 SEミーティング終了後、全体ミーティングで会社から表彰される。賞品として、妻同伴のプエルトリコ旅行をもらった。妻に電話でアメリカのビザを取る準備をするよう伝える(でも、取れるのかなぁ)。実家のあるコンケーンの郡役場で、タビアンバーンの書き換えが完了したことを聞く。この歳になると誕生日なんて嬉しくもないが、最高の誕生日であったでも、現地時間)。

1月10日(木)、1月11日(金)

 SEミーティング。何か気が抜けてしまい身が入らない。

1月12日(土)、1月13日(日)

 12日の昼に飛行機にのり、成田に着いたのが次の日の夕方。10時間しか飛行機に乗っていないが、時差の関係で休日が1日消える。アパートに着いたのは、夜の9時。

1月14日(月)

 国家の休日。日本に仕事で来ている義姉の夫(入籍はしていない)から電話がきた。新宿のワシントンホテルに泊まっているとのことで、訪ねていく。1泊1.5万円ということは知っていたが、余りの部屋の狭さに愕然とする。6畳間の広さにベッド、バスが詰め込まれている。ワンルームマンションそのものである。私の出張が無ければ、私のアパートに泊めれたのに、残念。

一緒にネパール料理(義兄はネパール人である)を食べた。

1月15日(火)

 義兄を実家に連れて行き、両親に紹介する。妻より先に義兄が私の実家を訪ねるという、いわゆる順番がずれたことになってしまった。仕事が終わってから、新宿・横浜間を往復して、川崎市のアパートに戻ったので、私の帰宅は午前様になってしまった。

1月16日(水)

 名古屋へ日帰り出張。慌てて乗った新幹線は大混雑。通路に座り込んでプレゼンテーション資料を15枚作成した。あ、関係無い話でしたね、すいません。

1月17日(木)

 そろそろ倒れるなり、風邪を引いても良い頃だが、とりあえず何とも無い。馬鹿であることが証明されてしまった。妻の在留許可申請書類を作成しなければ、と思いつつ、こんなもの(失礼)を書いている。

−了−


Special Thanks

 まず何を差し置いても妻へ。師走の忙しいなか、休みを取ってタイのど田舎まで付き合ってくれたT君へ。私の家族と妻の家族、参列して下さった妻の実家の村の方々、師走の忙しいなか、快く送り出してくれた私の職場の皆さん、混雑の激しいなか、綱渡りでチケットを確保してくれたアクロス横浜の●●さん(公の場なので名前は伏せます)、リモートで相談に乗ってくださった島田さん、そしてSAAMII MLの皆さん、バーンラック区役所登録官シキワット・ウォラウィットさん、登録官助手のソンティナーム・アンチャナーさん。ありがとうございました。

 そして、今は亡き義叔父の冥福を祈って。
2002年1月29日

TOP / HOME