私と妻とバンコクと
− 役に立たないエッセー −

 宅のPCの中を漁ってみたところ、旅行記と題した私記録が16個程みつかった。どれも100KBを超えるテキストなので、そのまま再録すれば読む方にしてみれば、ただの嫌がらせである。また、当時の自分の無知と偏見、勘違いをそのまま晒け出すことはとても恥ずかしい。これから書く内容も、何となく昔の旅を思い出して、妻と私、そして二人が出会ったバンコクという街をキーワードに散文的に書いたものに過ぎない。はっきり言って面白くないし、文才に欠けているので期待してはいけない。

 私がタイを初めて訪問したのは、1993年のことである。新旧のパスポートをひっくり返して数えてみたら、2002年の2月までの訪泰歴は31回であることが判明した。実際にはもう少し出入国印は多いが、近隣諸国への出入りのときのものであり、これを渡泰暦に数えるかは疑わしい。31回という数字に感慨はない。実際数字なんかどうでも良いことだ。滞在期間は大筋9日間、長いもので3週間、短いものでは3日間というものだ。だから、どんな計算方法で集計してみても、通算滞在期間は1年未満である。その程度の経験しかない人間が書いた文章なので、眉に唾を付けて読むべきだろう。もちろん書く方もボロが出ないよう一応頑張ってはみるが、詳しい人には底が知れるだろうという恐れもある。「枯れ木も山の賑わい」の類だと思って欲しい。


 0代の頃は、もっぱらヨーロッパを回っていた。アンドラとかサンマリノのような小さな国を除けば、西欧は一通り行っている。東欧や北欧にも足を運んだ。ベルリンの壁は実質崩壊していて、東独にいるベトナム人は干渉地帯を歩いて西ベルリンにやってきていたが、日本人はチェック・ポイント・チャーリーを通らないと東ベルリンには行けなかった。チェコは既にビロード革命後だったが、何故か秘密警察の尾行は継続されていた。プラハで国営旅行社に届け出ることなく適当なホテルに滞在したが、お咎めはなかった。東西の壁は消えつつあったが、適度な緊張感も残っていた。興味深いヨーロッパではあったが、飽きていた。フレデリック・フォーサイスの小説の舞台を一通り訪ね終わった頃、自分にとって居心地の良い欧州はパリとリエージュだけだと気が付いた。その頃、何故か旅行に不自由がない程度には喋ることができたフランス語は、今ではすっかり忘れてしまった。

 30歳になって、何故か急に「アジアだな」と思った。アメリカやオーストラリア −正確に言うなら、アングロサクソンの国々− には、昔から全く興味がなかった。アフリカ、正確にはマグレブには興味があった。知り合いにチュニジア人とアルジェリア人がいたので、訪ねていってみようかという気持ちもあったが、東京を基点に考えれば、時間と金、体力が続かないことは自明の理だった。もたもたしているうちに、アルジェの治安はイスラム原理主義の台頭で極度に悪化し、ムスリムに対してろくに知識を持たない私が、準備も無しに訪れるには難しい情勢になっていた。

 93年の2月にソウルに行った。東京と同じだった。安心感はあったが、面白くはなかった。3月に休暇を取り、バンコクと香港に行った。バンコクは暑かった。鉄道に乗ってホアランポーン駅で降りた。清潔な街ではなかった。誤解を恐れずに言えば、暑くて、うるさくて、車が絶えず渋滞している汚い街だった。無知な私は、鉄道から見えるボーベー市場の裏手の辺りをスラムだと思っていた。ホアランポーンの外に出たところで、「オンナ? ブキ? マヤク?」とサムローの運転手が声をかけてきた。カンボジアで大量に余った銃器が流れ込んでいるという記事は新聞の国際欄を見て知っていた。バスは目に入ったが、予約したホテルまでどのバスに乗ればよいか分からなかった。サムローやタクシーは危険だと思った。

 そのとき、私は3時間半もかけて、日本から予約していたプラトゥーナムにあるインドラ・リージェント・ホテルまで歩いたのである。途中、暗闇の中で炊き火を囲んで車座になって座っているタイ人から何度か声をかけられた。タイ語の分からない私は、恐れを悟られないように、歩みを早めるしかなかった。今にして思えば、サムロー運転手には「バー(馬鹿)」と言って相手にしなければ済むだけだし、無知な観光客に対しても、タクシーは精々3倍ぐらいしかぼらないことは理解できる。車座に座っていたタイ人も「おーい、こっちに来て、一緒に呑まないか?」と声をかけてくれただけのことだろう。しかし、臆病な私にはアジアの夜は本当に恐かったのである。

 冷房が効き過ぎるインドラ・リージェント・ホテルの部屋のベッドに寝転び、馬鹿でかい窓から外を見ると、高速道路と高層ビルしか見えなかった。通りを見下ろすと、ごみごみした下町があった。ブレード・ランナーの一シーンを思い出した。次の日の朝、バス停に唯一あった書いて英単語「Central Train Station」を頼りにバスに乗って駅まで戻り、駅からカオサンまで歩いた。今では多少のパターン認識ができるものの、当時はタイ語なんて全く読めなかった。明らかにクメール語と混同していた。ぐにゃぐにゃした字は全てクメール語だと思い込んでいたのである。今は、タイの文字は一つ一つの独立した文字として認識できるし、書体の区別もつくが、当時は多くの日本人が言う「ミミズがのたくったような文字」という感覚しかなかった。

 汗だくになり、道を間違えながらひたすら歩き、スコールをやり過ごしてカオサンに辿り着いたときは、既に夕方になっていた。カオサンではマルコポーロというゲストハウスに泊まった。1階のレストランは風情があったが、薄いベニヤ板で区切っただけの狭い250Bの部屋は湿気が充満し、洗濯物が全然乾かなかった。

 タイは初めてという学生と知り合いになり、王宮近くの屋台で一緒にカオ・パット(焼飯)を食べ、露店で缶ビールを買った。露店の親父が何か叫びながら追いかけてきた。何事かと思ったが、ストローを持っていかなかった我々のために持ってきてくれただけだった。「いらない」と言うと、寂しそうな顔をして露店に戻っていった。『タイでは、ビールもストローで呑むのだろうか』と考えていたら、肩の辺りにあった無意味な緊張感が無くなっている自分に気付いた。2泊してカオサンをチェックアウトし、一泊500Bのヤワラーのホテルに移った。1階には冷気茶室という売春を生業としている店があったが、2階以上は一応ホテルだった。夜、パッポン通りとシーロムのロビンソンを眺め、次の日の朝、香港に飛び立った。1バーツが4.5円ぐらいの時代だが、3泊分の宿代を払い、当時250Bの空港税を払っても8千円も使わなかった。


 故かタイが気になっていた。出かける前はシャム猫とシャム双生児ぐらいしか知らなかった。正直に言えばシャム猫とペルシャ猫さえ混同していた。帰ってきてから、タイに関する本を手当たり次第に読んだ。役に立つ情報もあったが、無知な私にも明らかに嘘だと分かる内容もあった。売春に関する内容が多いことにも気が付いた。おっさん連中がツアーでニヤニヤしながら行く国の一つであることにも、間抜けなことに後で気が付いた。その5箇月後、サムイ島に行った。今と違いチャウエンの外れは店も多くなく、500m歩いても食べ物屋は5軒くらいしかなかった。その年の年末はパタヤとアユタヤに行き、次の年の3月末は強行軍でチェンマイとハジャイ、スンガイコーロックに足を運んだ。マレーシアのコタバルにも行ったが、厳格なムスリムの多い土地ではビール1缶入手するのにも苦労して、一泊しただけでタイに逃げ帰った。

 その頃はもうタイの全てを理解したような気持ちになっていて、バンコクを基点に近隣の国に足を延ばすようになっていた。ミタパプ(友好橋)を渡って、ノンカイからラオスのビエンチャンを訪ねた。帰りにフェサイからチェンコンに渡り、チェンライ、メーサイ、チェンマイを経由してバンコクに戻った。都市でありながら、妙に静かなチェンライの街が気に入った。そのとき泊まったラマ4世ホテルは既に無くなってしまったが、チェンライはその後何度も訪れている。カンボジアのプノンペン、シェムリアップに2回行った。カンボジアの治安は悪かったが、タ・プロームやアンコール・トム、バンテアイ・スレイ等の寺院は興味深いものだった。当時、チェンラ・ゲストハウス(No.260)は既に日本人宿だった。宿の日本人に連れられ、ゴクミに似ていると皆が騒ぎ立てる看板娘がいる店でバナナ・シェークを飲み、宿屋の小学生の末娘にせがまれるままに日がなバドミントンをして過ごした。


 に初めて出会ったのはその頃である。白状すれば、妻の印象はとても薄かった。英語も話せず、外国人に恐れと強い警戒心を持っていた妻は、私が喋る片言のタイ語を理解していても全く反応しなかった。「サワディー」と声をかけ、「サワディー・カー」と返事をしてくれるまで1年、仲の良い友人になるまで3年ぐらいかかった。歳も離れていたし、単に内気な小娘という印象しかなかった。妻は、妻の姉とともにバンコクの片隅で一生懸命に生きていた。悪いことをすれば金を得るのは簡単なバンコクという街で、誘惑に負けず姉妹で支えあって生きていたことなど、当時の私には知る由もなかった。

 後に聞いた話だが、妻は、初めて夜行バスに乗ってモーチットに降り立ち、薦められるままにタクシーに乗ったところ、余りにめまぐるしく変わる景色に目眩がして吐いてしまったそうだ。その後、バスに乗っても暫く都会の騒がしさに目が回ったと言う。田舎から出てきたばかりの妻の友人を誘って食事に行ったことがあるが、ソイでは元気一杯だった少女が、大通りに出た途端、余りの車の多さに「ロット・ヨーヨー(車が一杯)」と呟き、足を進められなくなっていた。他の妻の友人は、未だにエスカレータに乗るときにタイミング合わせに難儀していて、乗る前に2、3歩、足踏みしてしまう。田舎者と笑うのは簡単だが、彼女達の田舎とバンコクとの距離は500kmと離れてないのに、まるで20年ぐらいの時差があるように感じてしまう。

 公式統計という宛てにならない数字によれば、タイ人の約1割がバンコクに住むという。この20年くらいで急速に膨れ上がった人口を支えきれるだけのインフラストラクチャは、バンコクには備わっていない。それでも多くの人が、昔からのバンコキアンであるように振る舞っている。思い返すと、妻は同郷の人と話しをするとき以外は、当時から標準語を喋っていた。標準語はテレビで覚えたという。そしてそれが、イサーン出身者であることを隠すためだと私が気付いたのは、随分と後のことである。


 の後暫くして、何の因果か私と妻は恋仲になった。家の立て替えのために20万B送った。今はタイの女を騙す日本人の男、日本人女を騙すタイ人の男、タイの男を騙す日本の女と様々なパターンを理解できるが、「タイの女はすぐに金銭をねだる。散々金品をねだって『ハイ、サヨナラ』」というのは、当時、私もよく耳にした詐欺話だった。「惚れた女に騙されるなら、それまでのことさ」と居直った。立て替えた二階建ての家は、タイの物価を考慮しても70万Bぐらいはしそうだった。妻を含めた妻の家族が貯めていた金では足りなかっただろう。私の存在が踏ん切りになったことは明らかだった。その年の年末、僧侶を呼んでバーン・タンブンを行った。私は運が良かっただけかもしれない。

 その後、妻はバンコクの義姉夫婦のところに身を寄せていたが、さすがに居候の身では肩身が狭いのか、田舎とバンコクを行ったりきたりしていた。幾ばくかの金を訪泰する度に与えていたが、私の願いもあってバンコクにアパートを借りた。「セキュリティのしっかりした、家賃4000Bぐらいのアパートを借りなさい」という少し難しい注文に対し、妻はラチャダーに家賃3500Bのアパートを見つけ出してきた。7階の風通しの良い部屋で、エアコンと電気温水器が備わっていた。エアコンも電気温水器も滅多に使わない妻だが、それがたまにやってくる私を気遣っての選択であることはすぐに分かった。左手にテレコムアジアの本社ビル、右斜め前にはバイヨークが遠くに見える部屋だった。私が今の会社に移る前の3週間、一緒に暮らし、妻の実家を訪ねて義父母に結婚の意志を伝えに行った。私は全くだらしなく、義父母の前でもじもじしているだけだった。義父母は、ろくにラオ語を喋れない日本人と娘の意を汲んで、タビアンバーンを預けてくれた。その頃から毎月定期的に送金をするようになった。妻はあからさまに金をねだることはなかったが、幾ら綺麗事を言ってみたところで、生活するためには金がいるのは明らかだった。

 婚姻具備証明書の発行には、思いの他、時間がかかった。賄賂欲しさの役人は延々と時間稼ぎをした。やっと入手した婚姻具備証明書を手にバンコクに戻り、オーミさんのところで翻訳をお願いした。翻訳と外務省認証手続きの合間に、妻を連れてチェンライを訪ねたかったが、そんな時間的余裕は無いことをそのときに知った。預けた翌々日に翻訳が完了し、その足で外務省に出向いて、全てが順調に進んだとしても、私の帰国日直前に認証が完了するスケジュールだった。チェンライは諦め、翻訳が完了するまでのたった1日の短い休みを、一緒にパタヤのジョムティエン・ビーチで過ごした。

 その後、私は休みの度にバンコクを訪れ、妻の部屋で過ごした。妻と一緒に歩くバンコクには、観光客が訪れるWTCやMBKも含まれていたが、ロータスやカルフール、アヌサワリ、友人の部屋が多かった。思い出深い暑くてうるさい街、バンコクに借りたアパートも2月末で引き払い、妻は今、実家に戻っている。ソンクラーンは田舎で過ごしてもらったが、田植え前のロケット祭りの頃には日本にいることだろう。そんなことを考えると、あの街は私たちの仲人だったのかもしれないと思う。妻が日本に来たら、前のように頻繁には訪れないようになるとは思うが、小姑のようなあの街は何かしでかしそうな、何かしてくれそうな気がしてならない。